一世を風靡した「栃若時代」。私は小学校以来、大の栃錦ファンだったが、1960年岸信介内閣のもと「アンポ(安保)反対」闘争が吹き荒れる中での全勝同士の両横綱の力相撲は今でも鮮明に記憶している。この直後、慶応義塾普通部から慶応義塾高校に進学し、迷うことなく相撲部に入部した。宮城野部屋の有力な後援者だった作家・北條誠さんのご子息が相撲部だった縁で何度か宮城野部屋に行き稽古?をつけてもらったり、チャンコ鍋を一緒に食べたりと懐かしい思い出がいっぱいだ。後年、毎日新聞社編集局の飲み会でチャンコ料理屋「宮城野」の土俵で、1勝1負の悔しい勝負をした相手がまだ若かった敏腕記者だった朝比奈豊・現社長だったのも何かの縁だろう。
慶応義塾高校で全生徒の投票によって生徒会長を選ぶ「会長公選制」の第1回選挙で私は副会長に当選した。その後、2期会長に当選して、念願だった小泉信三先生の講演会を開催した。会長、副会長とも体育会相撲部推薦で、私の後任の会長に当選したのも、相撲部1年後輩の早山隆邦だった。つまり慶応義塾高校の歴史的な新生・生徒会の初期は相撲部が担ったという強烈な自負がある。
私は大学2年で経済学部から法学部に転部し1967年に卒業した。同期生は、小泉純一郎、小沢一郎の両巨頭に、公明党代表代行だった浜四津敏子、麻生太郎内閣の官房長官だった河村建夫、厚生族の「ドン」と呼ばれた丹羽雄哉元厚労相らだ。一期下が中曽根弘、小坂憲次だった。浜四津さんは、「早稲田の吉永小百合、慶応の高橋敏子(旧姓)」と呼ばれるほど男子学生には人気があった。
日本は、幕末・維新、敗戦・復興に次ぐ「第三の転換期」であり、新しい体制への産みの苦しみの時期でもあるが、「失われた30年」に突っ込む気配が気になる。世界も「新世界秩序」構築に向け同時進行で混迷時代に入り、地球規模での構造転換が起こり、中国、インドなどの新興国の台頭、相対的な日本の経済力の低下が続いている。良くも悪くもこの20年間の分析と統括が欠かせないと思う。